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セルビア共和国 (1992年-2006年) : ミニ英和和英辞書
セルビア共和国 (1992年-2006年)[せるびあきょうわこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビア : [びあ]
 【名詞】 1. beer 2. (n) beer
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共和 : [きょうわ]
 【名詞】 1. republicanism 2. cooperation 
共和国 : [きょうわこく]
 【名詞】 1. republic 2. commonwealth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

セルビア共和国 (1992年-2006年) : ウィキペディア日本語版
セルビア共和国 (1992年-2006年)[せるびあきょうわこく]

セルビア共和国(セルビアきょうわこく、セルビア語:)は、1990年から1992年までのユーゴスラビア社会主義連邦共和国、1992年から2003年までのユーゴスラビア連邦共和国、2003年から2006年までのセルビア・モンテネグロの構成国である。2006年モンテネグロがセルビア・モンテネグロ国家連合を離脱し独立国家となったことにより、セルビアも独立国家となった。
セルビア社会主義共和国1990年ユーゴスラビア共産主義者同盟の崩壊に伴って、社会主義体制を放棄した。新しい憲法が制定され、その中でセルビアはユーゴスラビアの枠内で民主主義体制をとる共和国であるとされた。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国1992年に解消されたのに伴い、ユーゴスラビアに留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、共産主義を放棄し、民主主義に基づく、2国から成る新しいユーゴスラビア連邦を結成することを望んだ。この新しいユーゴスラビアはユーゴスラビア連邦共和国と呼ばれるようになった。セルビア社会主義共和国1990年より「セルビア共和国」へと改称されていたが、旧共産主義者同盟の政治家らはその後10年間に渡って、ユーゴスラビア共産主義者同盟の下部組織であるセルビア共産主義者同盟を改組したセルビア社会党として政権の座に留まった。セルビアは、その人口および面積でモンテネグロを圧倒しており、事実上、新しいユーゴスラビア連邦において支配的な地位を占めていた。しかし、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、外交等を共通化するほかは、内部的にはそれぞれ独自に機能していた。連邦の政府にはセルビア人と共にモンテネグロ人もいた。
== ユーゴスラビア連邦共和国 ==

ユーゴスラビア連邦共和国におけるセルビアの政治は、ボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアに住むセルビア人たちの利益を守ることに力が注がれた。彼らはクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナの独立を望ます、ユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいた。1989年以降、セルビアはスロボダン・ミロシェヴィッチが指導者となっていた。ミロシェヴィッチは元共産主義者同盟の党員であり、ユーゴスラビアにおけるセルビア人の権益を守ることを訴えた人物である。1992年、ミロシェヴィッチと、モンテネグロ共和国の大統領モミル・ブラトヴィッチユーゴスラビア連邦共和国の結成に合意した。国際社会からは、この連邦でセルビアが支配的な立場となり、セルビア大統領のミロシェヴィッチがユーゴスラビア連邦の大統領よりも事実上強大な権限を持つのではないかと危惧する声が上がった。ユーゴスラビア連邦共和国の初代大統領となったドブニツァ・チョシッチ(Dobrica Ćosić)は、ミロシェヴィッチに抵抗してその地位を追われている。ミロシェヴィッチの政府はマケドニア共和国に対しては領土的な要求はしなかった。ミロシェヴィッチの支持者らは、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナなどの旧ユーゴスラビア諸国で一方的に分離したセルビア人の自治国家(スルプスカ共和国クライナ・セルビア人共和国など)について、これらの地域におけるセルビア人の民族自決の原則を支持しただけであるとした。
クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける一連のユーゴスラビア紛争において、ミロシェヴィッチはこれらの国々からの分離を望むセルビア人の自治国家を支援した。この支援によって後にミロシェヴィッチは、セルビア人の分離主義者らによる戦争犯罪行為を支援しているとの批判を受け、国際社会において多くの政治家らから非難を受けた。
1995年、ミロシェヴィッチはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させた和平合意であるデイトン合意にて、ボスニアのセルビア人の利益を代表して参加し、署名した。ミロシェヴィッチはその後も1997年までセルビアの大統領職に留まり、その後ユーゴスラビア連邦共和国の大統領となった。これに代わって1997年には、ユーゴスラビア連邦の大統領であったミラン・ミルティノヴィッチがセルビアの大統領となった。
1996年から1999年にかけて、セルビアの中でアルバニア人の多く住むコソボ・メトヒヤ自治州の情勢は不安定となった。コソボ・メトヒヤではコソボ紛争に突入し、1999年にはセルビアとモンテネグロはNATOによる空爆を受けた。空爆では、ベオグラードを含む複数の都市への戦略爆撃も行われた。その後、ベオグラードの政府はコソボの統治権中止に同意し、コソボは国際連合国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下となり、セルビアの統治が及ばなくなった。
ユーゴスラビア紛争の余波は、セルビアの経済的苦境につながっていた。また、国民のミロシェヴィッチに対する怒りも増大していた。紛争とその影響によって、セルビアではヴォイスラヴ・シェシェリ率いるセルビア急進党などの極右政党が台頭した。シェシェリは、全てのセルビア人は統一されたひとつの国に住むべきであると主張する人物である。シェシェリは、ユーゴスラビア紛争において自ら私兵を率い、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争に参加していた。シェシェリは1994年1995年にユーゴスラビア政府によって逮捕されているものの、その後1998年から2000年までセルビアの副大統領となった。2000年、セルビアの市民は、選挙の不正操作によって、選挙の後もユーゴスラビアの大統領職を辞することを拒んだことに対して抗議行動を展開した。ミロシェヴィッチは2000年10月5日に政府を追放され、その翌日、正式に職を辞した。ミロシェヴィッチは2001年、政権時代での不正の容疑で連邦政府によって逮捕され、その後、戦争犯罪の嫌疑で、デン・ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に引き渡された。
ミロシェヴィッチの失脚後、セルビアの政治家ヴォイスラヴ・コシュトニツァがユーゴスラビアの連邦大統領となった。2002年、ミロシェヴィッチの盟友であったミラン・ミルティノヴィッチはセルビア大統領を退き、12年に及んだセルビア社会党による支配体制は完全に潰えた。民主党ボリス・タディッチがミルティノヴィッチに代わってセルビア大統領となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「セルビア共和国 (1992年-2006年)」の詳細全文を読む




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